生ききったDくん

2年前、Dくんが旅立った。

初めて知ったのは、1月だった。麦っ子畑保育園の卒園式が近づいて来ている頃のこと。麦っ子の卒園式は、麦っ子の園児全員、全てのクラスの親、スタッフ、関わった人たちが参加する。そして、卒園パーティーでは親達が全力で出し物をする。私達、卒園時の親も半年くらい前から準備にとりかかっていた。うちのクラスは親達もとても仲が良く、朝まで飲んだり、泊まったり強い絆があった。中でも学年を超えて、親達を盛り上げてくれていた親がいた。麦っ子畑保育園の新園舎を設計したお父ちゃん、Dくんだ。そのDくんが体調が悪いから出し物から抜けると言われた。詳しい事情は聞いてなかったけど、忙しいのかな?とあまり気にしていなかった。

麦っ子は、朝、ゲルの焚き火からスタートする。というのは、以前のブログにも書いたが、園長の旦那である鍼灸気功師ののんちゃんが、焚き火に火入れし、お祈りをする。体調が悪い時はOリングで診てもらったり、珊瑚に氣を入れてもらう。いつもうちが1番が早いがその日はMたちが先に来ていた。子供たちをゲルに入れる時に、のんちゃんがMに夜、どうだった?と聞いた。Mは、眠れなかったみたい、痛くて。と言った。それを、後ろで聞いていた私が、眠れない?痛い?何?どういうこと?と話に入ってしまった。子供を預け数歩歩いた後で、Mが誰にも言わないでって言われたんだけど、Dくん、癌なのと話してくれた。どこの?ー

胸腺と肺なんだけど、何かいい方法あるかなと。内心、胸腺と肺かー、他のところだったら良かったのに、、、。私達は、駐車場で少しだけ泣いて別れた。

家に帰り、何をやっても涙が止まらなかった。泣くだけ泣いて、呼吸をしながら悲しみを手放した。そしたら、明るい方へ、明るいこと、悲しみの中に希望、支えなさいと言葉がきた。私はのんちゃんのところに通ったあと、気功教室に行き、呼吸法をし、呼吸クラブで呼吸を教え、レイキをしながらシンギングリンをしていた。食事も1日1食にしていた。若干、ストイックな生活をしていた。だから、これから話すこともできたのだと思うし、色んなことがこのことのために準備されていた気がする。

Mにも、Dくんにものんちゃんまでしか話してなくて、私がその後、そんなになってるなんてことは、伝えてなかったから、どう説明しようか迷った。だけど、兎に角Mに伝えることにした。Mは聡明ながら、とても直感に長けている人で、すぐに話の核となる部分を熟知して、私が話したことを素直に全て実行にうつした。

Mに呼吸を教えることにした。Dくんと久々の対面。痩せてはいたが、まだ、時々笑い激しい痛みと戦っていた。Mはすぐに呼吸法を飲み込み、それからも続けていた。Dくんは、その時は、こそばいからと触れなかったけど、耳がとてもいい人で、シンギングリンの音がとても落ち着くと言ってたので、それをMに託した。シンギングリンはどこを叩いても全倍音が出る楽器で、波動調整してくれる楽器だ。

その後、Mが休みの日にDくんのところに行き、マッサージしてと言われ、レイキをしながらマッサージした。少し寝られる時間ができたので続け、夜、2〜3回目覚めた時に遠隔でレイキした。私には、特別な力もあるとは思ってないが、私はDくんを少しでも楽にしている、私は邪気を受けないと意識に落とし込んだ。Dくんの邪気が凄いことも分かった。のんちゃんが治療に手こずっていることも知っていた。看護師として、そのガンがどれだけシビアで、旅立ちまでのプロセスのどのあたりにいるのかも、何十人も看取ってるから分かっていた。でも、人間のものすごい可能性も知ってたし、目的を持って生まれてきてるのも、どういう風に生きるためにきたかも決めてきてると思って対面していた。

その頃、退職してゆ〜っくり就活していたので、合鍵を借りて行ける時は毎日Dくんのところに行った。Dくんは、オートロックの鍵を開けることがしんどくなっていた。私は鍵を開けて勝手に入り、静かによっ!と言って、無言でマッサージをする。1時間から1時間半すると寝てしまうので、寝るまでやって音を立てずに静かに帰った。毎日、いってたがほとんど会話せず、魂同志で会話した。

GWに入り、後ろ髪引かれながらも低空飛行で落ち着いていたため、予定通り淡路島に行った。淡路島はとてもエネルギーがあり、自分のため、N家のためと思い、旅に出た。

旅行から帰り、Mから電話があった。Dくんが凄く苦しがってて!と。すぐに救急車呼んで、入院になるから入院準備して。子供はうちで預かるから、と話した。合鍵を使い、部屋に入ると慌てて出た後。電気もつけっぱなしで荒れていた。少し片付け。何と二人の子供を預かったはいいけど、遠足とはウケるんですけど、と言いながら、リュック出し、帽子、着換え、シートなど準備し、家を出た。N家は、麦っ子で1番食事や生活を丁寧にしている家で、預かったり、食事が難しいところがあった。私はN家ほどちゃんとしてないが、のんちゃんのところは通ってたので、食事に何とか対応できる系だったと自負している。子供も今の状況、色々感じることがあったであろう、色んな人にお願いしたかったが、やっぱりうちで預かるのがベストだった。

Dくんは、入院となり、家族中でどんどんマイナスな深い闇にハマり始めていた。あのしっかり者のMも少し変になってきたから、少し休んだ方がいいよ、と話し、1〜2日子供たちと家でゆっくり過ごしたかな?すぐに元のMに戻り、さすがと思った。

ガンセンターでは、暗い話しかされず、両親パニック。Dくんもホスピスに行くと言い出すが、心の状態が不安定になってきた。Mも子供たちも病院は邪気が多く、調子悪くなると相談された。Mと話して在宅にしようという話でまとまった。私は、在宅に強くはないけど、1人癌のターミナルを専門にやっている在宅医がいて、その先生だと痛みのコントロール上手だと思うんだけど、エリア外かなーと話した。その頃、私は就職先が決まり、新しい訪問看護で働き始めた。Mから、何かエリア外だけど私が言ってた在宅医になったみたい、と報告を受けた。訪看はどこになった?と聞くと、まだ決まってないけど、その在宅医が指定してるフットワーク軽いとこって言ってたと。

就職して、3日目来週から訪問する新規の情報が入った。何と、在宅医が指定した訪看は私が就職したところだった。しかも、初めての一人立ち訪問も担当も私となった。これは今でも凄いことだな、と思っているwww

痛みの比較はできないし、閾値も違うから測れないけど、場所や年齢、痛がり方をみて、私が見てきた中で3本指に入るくらい強い痛みだった。しかも、ガンセンターではほとんど痛みのコントロールができていなかった。麻薬の使い方には、色々な方法があるが、場所や痛がり方、また、どう過ごしたいかによって、内容や量が変わる。寝ちゃってもいいから、ゼロにしてほしい人もいれば、痛みは少ししかとれなくても、クリアでいたい人もいる。片っ端から色んな治療をする人もいれば、自然療法の人もいる。その人や家族がどう生きたいか、どう過ごしたいかにかかっている。Dくんは、無治療を選び、生きることを選び続けた。

医療で看取りを経験すると、人が死までのプロセスのどの段階にいるか分かる。あと、一週間くらいだね。今日か明日だね、とか。そして、多くは死までのプロセスをどう安楽に死なせていくかに焦点を当てる。当ててる自分に気がついた。でも、DくんもMも、家族も、そして私もそう考えたくなかったし、考えなかった。どう死んでいくかじゃなくて、どう生きていくかと考えたかったし、考えた。これは、似て大いに非なるもの。目に見える世界は一緒でも生きていくか、と死んでいくかは全く違うのだ。

在宅医は本を沢山だし、メディアにもよく出る有名な先生で、忘れちゃったけど、何とかケアっていうその人の自分史みたいな振り返りをして、受け止めのケアをしていくアプローチをする人だった。でも、それはみんなには必要でなく、Dくんにも家族にも必要なかった。Mに、先生にそろそろ子供たちに話して、受け止めの準備をした方がいいって言われたけどどう思う?私はしたくないんだけどと相談された。私は、必要ないと思う。事前に話しても、その後に事実と対面しても、悲しいのは悲しいし、予防になる訳でもない。むしろ、貴重な時間を明るく過ごせた方がいいよ。やらなくていいよと話した。

私は友人として、看護師として、常に薬やアプローチのタイミングを推し量っていた。仕事を続けながら看護しているMに仕事を休んで1日いたら?というタイミングを特に悩んだ。それを言うこと、することが死が近いと宣言することになるから、常に悩み続けた。Dくんにも二人の時に、手紙とか代筆しようかとギリギリに言ったら、オレそういうの苦手ーと返ってきたから、止めた。Dくんは建築バカで最後まで建築のことを考え、建築が大好きだった。建築の話をすると生き生きした。だから、建築バカと命名した。両親もかなり動揺していて、日に日に情緒不安定になっていた。お母さんも気丈にしていたが、変わってあげたいと何度か影で泣いた。

亡くなる2日前、あー、もうすぐだなーと思い、家で涙が止まらなくなった。泣いたのはその2回。

Dくんは、家族に囲まれて旅立った。まだ、若くて、子供も幼くて、最後は痛みとの戦いで、とみんなとても悲しんだ。もちろん家族も、私も悲しい。悲しいけど、若いのにとか肉体を持つ地球側の意見だな、と思う。そういう生き方を選んだのだろうし。でも、あんな辛い状況でもしっかりと全てを支えた偉大な妻を選び、かわいい子供を持ち、タヒチにも旅行し、麦っ子畑保育園の新園舎を設計し、地球的には短かったけど、自分を出し切って、使いきって、生ききった素晴らしい人生だったねと言いたい。私はしかと見届けたよ。

6月はDくんの命日

友達として、何となくスピ系みたいな感じだった者として、看護師として人とこんなに深く関わることは、もうないな、と思い書きながらまた、感謝したところ。今でも、時々シンギングリンのボロボロのバチを見ると思い出すし、忘れててもMが助けてほしい時とか、夢に出てきたりした。最近は出てこないけど。

私もDくんみたいに、自分を使い切って、生ききって死にたいなと思う。

作成者: migu.johno7070@gmail.com

4月から、静岡県のウッドハウスおろくぼの管理人、料理を担当しましたが、色々あり、3ヶ月ちょっとで卒業。管理人の手伝いをしながら、また、看護師で働いてます。丹田を意識した呼吸をすることがやっぱり1番大事だな、と思う日々。生活の支出を見直し続け、お金のかからない暮らしを追求中。自分で必要な分だけ稼ぐ生業作りの旅に出てます。音楽、漫画、米粉パン作りが好きです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA